November 06, 2014

アフリカ人と東京お上りさん観光。


アフリカ勤務時代の現地人の同僚が研修目的で来日してまして。

彼はこれまでの人生の40年余りの間、外国と言えば地域大国の南アフリカくらいにしか行ったことないはず。彼の地では一番名声の高い大学を出ているし、日々日本人と仕事しているので、中国と日本の区別がつかないとか、下手すると中国どころかインドまで一緒くたにしているアフリカ人に比べれば余程インテリなんですが、それでも極東の日出づる国の滞在となると一大イベントです。約10日の滞在中、研修の公式日程とは別に3日ほど自由時間が取れるとかで、そのうち1日は私が東京案内してきました。

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本人の希望は「スカイツリー」、「百円ショップ」、「DVDプレイヤー買いたい」。

その日は日曜日。朝7時半にホテルに迎えに行って、2000円分チャージしたパスモを渡して地下鉄を乗り継ぎ、まずはスカイツリー。すみだ水族館に寄り(海のない内陸国出身の彼の希望)、ランチはお茶の水のホテルで設定されていた食事会。午後は明治神宮、原宿・竹下通りのダイソー、新宿のビックカメラというツアーになりました。私にとってもスカイツリーは初めて。竹下通り、明治神宮は最後に行ったのはいつだったか思い出せないぐらい昔。アフリカと日本ではDVDのリージョンが違うのに、ビックカメラみたいな真っ当な店ではリージョン・フリーのDVDプレイヤーは売ってないとかの不都合はありながら、日の出から日没まで目一杯の東京観光してきましたよ。

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インテリな彼なので、アフリカ人のおっかなびっくり珍道中、とはならなかったんですけど、それでもいろいろ言ってました。

・彼の国では交通手段は乗り合いバスか自家用車。僕も現地では車生活してたので、彼が「今はどんな車に乗ってるの?」と聞いてくるのも分かるんですが、「東京に住んでると車はあんまり要らないんだよ。要るときはレンタカー借りるし。」と答えてもピンとはきてない様子。でも、一日電車と地下鉄で連れ回すと、「これは非常に効率的だ。これだけ多くの人のスムーズな移動をマネージするのは車では無理だ。」とその意味を分かってくれた様子。

・「外国人観光客もいることはいるけど、アフリカ人はほとんど見ない。それより、たくさんの日本人が観光しているのが印象的。国内を観光する習慣があるのがこの賑わいの理由だと思う。」スカイツリーもたくさんの日本人の客で混んでて、それに感心した様子。言われてみれば、彼の国では親戚縁者の地元を訪ねる人はいても、単に観光目的で国内旅行するというのはほとんど聞かなかったな。

・「ビジネスの仕組みがあらゆるところに行き渡っている。お金が動き、物事が効率的に動くような仕組みがある。」これは日本に限ったことではなく、資本主義社会の国ではどこでも見られるとは思うんだけど、彼のアフリカの母国では経済活動に占めるインフォーマル・セクターの割合がとても高くて小商いばっかり、資本を投資した「事業」って感じのビジネスの活動が停滞しているので、かくも一般消費者を相手にしたビジネスが活況なことが新鮮だったようです。「日本経済は停滞が続いてるし、少子高齢化でこれからも楽観できない」と説明しても、東京の雑踏を見ている限りはそんなこと感じにくいしね。

・「どこも非常にきれいだ。」ゴミが散らかっていない、というのもあるのですが、建物や設備がきちんとしてる、たとえ古くてもメンテされていている、というニュアンスです。彼の母国の惨状からすればそうでしょう。信号機でさえ動いてないところが結構あるような街ですから。

彼の母国では経済が停滞しまくっているので、とにかく人が動き、街に活気がある様を見て、改めて経済活性化を促す環境整備、政策の重要性を認識したようでした。あまり国外に出たことはないとはいえ、その辺りの感想やはりインテリのコメントでしたよ。日本をモデルとして母国に移植することは難しいにしても、なんらかのヒントを持ち帰ってこれからのキャリアに役立てて欲しい、そう思いながら見送ってまいりましたとさ。

June 01, 2014

ネットで買わないもの。


 用事を済ませた帰りに、通りがかりにウィンドウを見て入ったショップ。しばらく服を眺めていると、店員さんが声をかけてきた。
 「お客さんが今履いてらっしゃるハーフパンツ、うちのブランドでかなり前に売っていたやつですよね?僕もそれ好きだったんですよ。」

 正直、いつどこで買ったかなんて忘れていたものだったんだけど、そういえばあの時、あのシャツと一緒に買ったのかもしれない。同じブランドのショップにふらっと入ってしまうとは、好みのテイストってあまり変わらないものなんですね。

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 ネットでなくてリアル店舗で、それも量販店ではない専門店で買う、ということのプレミアムはこういう体験にあるんだと思う。スペックのはっきりしたものを出来るだけ安く買うならネットがいい。マイナーで見つけるのが難しいものはネットで探して買うのが簡単だ。でも、中にはその商品だけでなく、その商品にまつわる体験も含めた全体にお金を払う商品もある。リアル店舗の空間と体験にはネットにはないプレミアムがある。

 店員が「うちのブランドのかなり前のものですよね。」と話してくれる。ただそれだけなんだけど、そこに物語が広がる。買うのなら、ネットで買うよりもリアル店舗で、それも専門店で買いたいものは、ある。それがネットで買うより少々高くても。

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 ・・・という感覚に共感してくれるのは、ある程度より上の世代の人たちなんでしょうね。「若者の◯◯離れ」と言われている「若者」さんたちには通じない感覚のような気もします。

May 01, 2014

ダーク・ツーリズム

 2014年のゴールデンウィークの前半に出かけたのは,タイのカンチャナブリ〜ナムトックの辺り。ミャンマーとの国境に近いところで,クウェー川沿いに熱帯の緑が深いエリア。初めてタイに渡った20年前から「カンチャナブリに行ってみたい」と言っていたような気がしますが,やっと実現です。今回はバンコク在住の友人Tも付き合ってくれるというので心強い。
 あの辺り,旧日本軍がミャンマー,インド方面への補給路を確保するため,ひどい無茶をして鉄道を建設したところです。イギリスはその鉄道の建設には5年を要すると見積もり,その難工事は建設労働者にとっても過酷すぎるとして結局建設を見合わせたのに,旧日本軍はろくな重機も物資の補給もない中,連合国軍の戦争捕虜とアジア地域からの労働者を動員し,鉄橋や切通しの続く400km余りの鉄路建設を強行。わずか20か月足らずで開通させたというのです。

 その代償は悲惨でした。連合国軍の戦争捕虜だけで12000人以上,アジアの労務者も合わせると10万人ともいわれる死者を出したのです。死因は病気,けが,飢え,虐待。イギリス,オーストラリア,オランダなどの人々にとっては,旧日本軍による残虐行為を今に語り継ぐ故地となっています。
 鉄道が実際に使われたのは1943年〜45年。連合国軍による爆撃と日本の降伏で大部分は打ち捨てられたのですが,一部区間は現在もタイの国鉄が走っており,特にカンチャナブリ近くのクウェー川を跨ぐ鉄橋は往時を偲ぶ場所として多くの観光客を集めています。古くは1957年公開の映画「戦場に架ける橋」,最近では2013年公開の映画「The Railway Man」の舞台になった場所としても知られていますしね。

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 20年前には「dark tourism」という言葉はなかったと思います。事故や戦争の悲惨な現場を訪れる旅。物見遊山で出かける場所ではなく,不謹慎だと批判を受ける可能性はあるけれど,やはりその現場を訪れてそこで何が行われたのかを噛みしめることは,ひとつの旅の形としてあり得ると思うのです。

 鉄路建設の最大の難所,ヘルファイア・パス。この切通しをほとんど鑿(のみ)と鎚(つち)のみで,ひたすら捕虜たちをこき使って造ったといいます。今でもここで命を落とした連合国軍兵士の遺族たちが花を手向け祈りを捧げに来る場所に,日本国民として訪れることは複雑な心持ちです。
 ここで先人たちがやったことを自分が詫びるのも嘘くさい。といって「戦争は二度と起こしてはいけません」と他人事のように語るのもなんだか違う。70年前,朝から汗だくのこの蒸し暑い森の中で起きたことと,今自分が生きている世界は地続きであり,それはそのまま,受け入れなくてはならないのでしょう。反省だの哀悼だのと言葉にすると白々しく感じられ,ただ自分たちはこの悲惨な歴史の先端に立っていて,この悲惨な歴史を作った先人たちと同じ人間だということを認めるしかない,それだけでした。

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 連合軍墓地。アジアの熱帯の森で,20代から40代の若さで命を落とした,いや,殺された人々を忘れないための場所です。
 旧日本軍が鉄道建設中の1942年に建てた慰霊碑も訪れたのですが,自分にはカメラを構えることができませんでした。

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 そして日は昇り、日は沈む。

 森の奥,クウェー川に浮かぶ気の利いたロッジで,あるいはバンコクの歓楽街を行き交う人々を眺めながら,Tとたくさんのビールを空けた週末は過ぎていきました。

January 19, 2014

「昭和時代」。


とある美術作品の説明書きに、制作年を「昭和時代」と書いてあったんです。

昭和「時代」ですか。

「平安時代」「江戸時代」「明治時代」という表記に違和感はないです。でも、「昭和時代」という表現には若干のぎこちなさを感じていました。

が、そのぎこちなさは、自分の中で「昭和」が未だに記憶に生々しい最近のこととして息づいていて、「昭和」を過去の歴史とは認識していないことが原因だったようです。

しかし平成も26年。四半世紀を超えてきているわけで。
昭和に起きた事件で、現在も捜査中だったり公判中だったりする案件も減ってきて、多くは歴史上の出来事として語られるようになってきてるし、確かに過去になった。

その美術品の説明書きを書いた人は、「時代」という過ぎ去った時の出来事であることを示唆する単語と「昭和」という単語に不釣り合いを感じることはなかったんでしょうし、それが世間にも受け入れられているってことですよね。


「昭和時代」。昭和も歴史上の時代区分になりました。



January 08, 2014

年賀状の思い出。

あれは小学校3年生、冬休み明けの3学期初日のことだったと思う。

先生がみんなに、年賀状を何枚もらったかな?と教室で聞いたんだ。

「10枚以上もらった人、手を挙げてー。」
運動ができてクラスの人気者のA君や、女の子たち間でリーダー格のBちゃんが手を挙げる。

「じゃあ、9枚!」
「8枚!」
「7枚!」
・・・
「1枚。」

「・・・0枚。」

手を挙げたのはO君だけ。彼はいじめっ子でも、いじめられっ子でもなかった。ただ、クラスの誰とも年賀状を送りっこするほどの関係を持っていない、「ああ、言われてみればそうだ。」という感じの子だった。

手を挙げるO君の横顔を今でも思い出せる。手を挙げる彼の気持ちを考えると、今でも胸が詰まる。僕もO君と普通に話はするものの、放課後に一緒に遊びに行くほどは親しくなかったんだけど。

まだ小さな子どもの時に、あんな残酷なかたちで孤独の味を知った彼は、その後どんな人生を歩んだんだろう。毎年この時期になるとO君のことを思い出し、会って話をしてみたいと思うんだよね。

どうしてる?大久保君。

January 02, 2014

沖縄。



沖縄。

小学校の時分に地元自治体の「少年の船」事業で初めて行ってから何度となく訪れ、2014年の正月も沖縄で迎えました。

沖縄旅行は「ビーチとマリンスポーツ」「琉球」「戦争と慰霊」「熱帯の自然」、いろいろな側面があって飽きることはないですけど、今回の年末年始の沖縄南部滞在はまた別の角度からの沖縄です。

40年近く前に沖縄に移り住んだ親戚を訪ねたのですが、それだけの時間を沖縄で過ごすと立派にうちなーんちゅ(沖縄の人)。現地の暮らしを垣間見ることになりました。

「100才を超えて亡くなった人の葬式、香典返しはヤクルト」「車社会。で、車で30分以上の距離は『遠い!』」「子ども3人は普通。4、5人でも特に驚きはない」、そんな「沖縄あるある」を聞きながら、知人の米軍関係者のエスコートで嘉手納基地内に入りお買い物&ランチ。アメリカに行ったことはないんだけど、基地内は「アメリカ」って感じでしたよ。

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私がまだ乳母車に乗せられていた頃に同居していて、私をすごく可愛がってくれていたという親戚のおばちゃんが数年前に他界したんですが、当時アフリカに赴任していた私は葬式に行くことができなかったんです。

そのおばちゃんの遺骨は残波岬からそう遠くない真栄田のサトウキビ畑の中の墓地に納められていました。サンゴの欠片で敷き詰められた近くの小さな入り江で甥、姪を遊ばせながらお墓参り。初めて聞く遠い日の話を聞きながら、手を合わせてきました。

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日本、アメリカ、そして琉球。3つのアイデンティティが混ざり合う暮らし。決して楽ではないけれど、おおらかに、マイペースに受け入れる南国の気性。別に沖縄生まれでもないのに、抗しがたい愛着を感じるのです。

夕飯は、地元の人がオススメのアメリカンなレストラン。米兵に混じってオバアもステーキやバーガーを食べに来る土地柄に沖縄を感じながら、暖かな元旦の夜は更けていったのでした。




あけましておめでとうございます。